人前で「マスク」をしないことが汚いとさえ感じてしまうようになってしまった感覚の変化と絶望感【沼田和也】
『牧師、閉鎖病棟に入る。』著者・小さな教会の牧師の教え 第18回
現代人なら「なるほどね。見かけじゃなくて、心がどうあるかが大切だよね」とあっさり受けとめてしまうかもしれない。けれどもユダヤ人にとっての食物規定は、彼らが物心つく前から親に躾けられてきた生活習慣だったはずである。彼らの常識、彼らの空気、彼らの身体の一部といってもいい。しかも律法にはモーセ以来の長い伝統がある。
そこで、さきほどのマスクの話である。マスク着用ルールなど、まだ二年も経っていない。ところがわたしは、今やマスクをしないで人前に出ることができない。というよりも、マスクをしないことが汚いとさえ感じてしまっている。ましてや、長い伝統を守っている彼らユダヤ人は、イエスからの挑戦をどう受け取ったのだろうか。わたしは考えこんでしまうのだ。
イエスが「食べ物は口から入ってうんちになって出ていくだけだ。人間を汚すわけじゃない」と言ったとして、彼らも頭では理解できただろう。けれども肌感覚として、では彼らは「おっしゃるとおりですね」と焼き豚を食べることができただろうか。蛸の刺身を食べられただろうか。頭で分かっていようが、やっぱり気持ち悪くて無理だったと思う。律法はたんなるルールではないからだ。それはもはや、おのが身体全体に沁み込んだ慣習であるがゆえに、それを破ることは吐き気をもよおすほど気持ち悪いことなのである。校則や社則をしかたなく守っているのとはわけが違う。組織の規則は、仕方なく守らされるものだ。けれども豚や蛸は、今や見るだけで気持ち悪いのである。彼らは嫌々どころか、自ら進んで律法の食物規定を守っていたのだ。そしてイエスもその文化圏にいたのである。まさにその文化圏にいながらこんなことを言い放つ行為が、どれほど大胆で危険なことだったか。
ある日、スーパーに買い物に行った。マスクをしていないおじいさんがいた。商品を手にとってはしげしげと眺め、また棚に戻している。わたしは反射的に思った────汚いなあ。マスクしろよ。いや、そんな言葉さえ思い浮かべなかっただろう。もっと直感的な拒絶反応が身体に起こったのを、わたしは感じた。そして、悲しくなった。いつから自分はこんなに、他人を汚いと思うようになってしまったのだろう。じゃあ、そんなことを言う自分はいったい、どれくらい清潔だというのか。コロナ病棟の看護師のような防護服でも着ているというのか。ただマスクをしているだけではないか。わたしも商品を手に取って、戻すことがあるではないか。マスクをしているかどうかだけで、その人の全身が汚いかのように拒絶するのか。
イエスが言いたかったことは、きっとこれなのだろう。たしかにウイルスはおそろしい。感染を防ぐためにマスクをすることには疫学的根拠がある。しかしわたしがそのおじいさんを目撃した日、東京の一日の感染者数はわずか数十人だったのである。ワクチンの接種率は日本の総人口の70パーセントを超えていた。そのおじいさんがかなりの高確率でワクチンを打っているであろうこと、そしてなにより、ほぼ間違いなくコロナに罹患してもいないであろうことくらいは、冷静に考えればすぐに分かることであった。ところが、わたしにとってそのようなエビデンスは、もはや問題ではなくなっていた。今やマスクが律法になってしまっていたからである。
イエスはユダヤ人の文化圏に生まれ育った。彼は律法そのものを否定したのではなかったのだと思う。そうではなくて、律法をどれだけ守っているのかのマウンティング合戦になることに、彼は虚しさを感じていたのだ。さらには、律法を遵守する人が、なんらかの事情で律法を守れない人を「汚らしい」と感じている現実に対して、イエスははらわたがよじれる思いを抱いていたのである。
このことは、マスクの話だけでは終わらないだろう。これからも「ええ? この人なんで!?」と、わたしが思わず身を引いてしまうようなふるまいをする人と、わたしは出遭うことだろう。そのときにこそ、「ええ? この人なんで!?」と思っている、まさにこのわたし自身に対して「ええ? なんで!?」と思えるようになりたい。わたしが「こうあるのが当然のこと」と思っている、言い換えるならば、こうあるべきなのにそうではない人に気持ち悪さを感じてしまう、その自明の前提というものを、問える人間でありたいのである。
文:沼田和也
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